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ピエール・キュリー略歴

キュリー, ピエール (Curie, Pierre)
1859.5.15(パリ)〜1906.4.16(パリ) フランスの物理学者
ピエール・キュリーは医者の息子であった。彼はソルボンヌ大学で教育を受け、 1878年、助手になった。1882年、工業物理学・化学学校の実験主任に任じられ、 1904年、ソルボンヌの物理学教授に任命されるまでそこに留まった。1895年、 マリー・スクロドフスカと結婚し、彼女と共にラジウムの研究をするようになり、 1903年のノーベル物理学賞を共同で受賞した。(→キュリー、マリー・スクロドフスカ)。

彼の科学上の経歴は自然に二つの時期に分けられる。一つはベクレル(→)による放射能の 発見以前の時代で、彼は磁性と結晶学について研究していた。もう一つは彼の妻マリ・キュリー とこの新現象を研究し始めた後である。

1880年、彼の兄ジャックと一緒に圧電(piezoelectricity)効果を発見した。「ピエゾ」は ギリシャ語の「圧す」に由来しており、ある種の結晶は機械的に変形すると、相対する 結晶面に逆符号の電荷を発生することを言っている。この逆も起こる。つまり、結晶を 荷電させると変形するのである。彼らはこの効果を使って、小さな電流を測定するための 電位計を作った。後にマリー・キュリーはウラン以外の物質から出る放射能が空気に 伝導性を与えるかを調べるためにこの装置を使った。ピエール・キュリーの2番目の大きな 発見は物質の磁性に対する温度効果であるが、それは特有なある温度で強磁性を失う ことを示した。この臨界温度はキュリー点として知られている。

この発見から間もなく、放射能の新現象を彼の妻と共に集中的に研究し始めた。そして、ラジウム とポロニウムという二つの新元素が1898年に発見された。これらの元素から放出される放射能 が研究され、純粋ラジウムの試料を作るために大きな努力が払われた。

彼は自国ではほとんど認められなかった。彼は初めソルボンヌの物理化学と鉱物学の教授職にも 採用されず、1902年、アカデミーの会員に応募すると、拒絶された。最終的には1904年、 教授に迎えられたのであるが、そうなった唯一の理由は彼にジュネーヴから職の申し出があり、 フランスを去ることを真剣に考えていたためのように思える。部分的には彼が政治的に左翼に 非常に同情的であり、第三共和制の科学政策に与したくなかったからであろう。

ピエール・キュリーは放射能障害に罹った恐らく最初の人であった。初期には照射放射能値を 制限しようという考えはなかったためである。1906年、彼はかなり奇妙な状況で事故死した。 彼はパリのある通りを横断中に滑り、通行中の馬車の下敷きになり、死へと追いやられてしま ったのである。放射能の単位、キュリーは1910年、彼にちなんでつけられた。

キュリーの娘、イレーヌ・ジョリオ−キュリー(→)は放射能研究を続け、彼女もまた夫 フレデリック(→)と共に行った研究でノーベル化学賞を受けた。

[参考文献]
「科学者人名事典」(科学者人名事典編集委員会/委員長 大槻義彦) P.165〜166(丸善株式会社 平成9年3月31日発行)
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